注)記事の日付は太陰暦を用いております

2009年01月17日

小宇宙だ

師走二十二日 晴れ

 来週の土曜日、つくし農園として新しい試みにトライしてみる。


 平成21年1月17日の小松学の今の言葉として、自然農は小宇宙だ、と断言してみる。実在する自然そのものでもあり、向き合う人そのものでもあり、人と自然の関係性の縮図であり、そしてその意味を意義付けることができるのは自分自身でしかない、という意味で。

 自然農はノウハウではない。レジャーでもない。癒しでもなく、息抜きでもない。かといって哲学でもなく芸術でもなく、宗教でもなければ絶対真理などでもない。しかし本人しか手にすることができない「気概」を携えて足を踏み入れることができたならば、そこには間違いなく、ミクロコスモス、小宇宙が広がっているのだ。

 全てあって、何もない。決めるのは自分自身。教えてくれるのは自分自身の向き合い方しだい。田畑の小宇宙を覗き込んで、何を見つけ何を思うかなんて、誰もわからない。僕は、自然農の入り口を紹介することしかできない。今の正直な自分の断言は、それでしかない。あえて言わせていただきたい、つくし農園は小宇宙への招待状なのだ、雑草屋本舗は野菜というレンズ越しに自然農を眺める望遠鏡なのだ、と。
 
 ならば言い換えれば、自然農はノウハウでもありレジャーでもあり癒しでもあり息抜きでもあり哲学でもあり芸術でもあり宗教でもあり絶対真理でもあり何でもいいのだ。何でも。何でもいいんです。


 三年目のつくし農園を経て、少なからず僕と小宇宙を共有してくださったプレーヤーの方達と過ごす、「話す聴くワークショップ」の開催。DAN'S・TABLEさんの全面協力を得て、トライしてみる。 実に、楽しみで仕方がないんだ。
 
 
 それはまさしく、銀河鉄道999。
 

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vegetables from microcosm
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2009年01月05日

初心

師走十日 【小寒】  晴れ


 食っちゃ寝、食っちゃ寝、正月に帰省するのはそのためであるかのような寝正月を最大限に過ごし、リズムが整わないままつくばに戻ってきた。


 初仕事、と別段意味もこめずに散歩をしながら田んぼと畑を見てまわる。昨年いっぱい向き合ってきた、土、草、空気。春、夏、秋、そして只今の冬。想い返し、振り返り、季節の巡りが目の奥に流れる。そこには、土地を移してそれぞれの畑と田んぼがあり、それはすなわち、そこそれぞれの命の営みがあり、同時に自分が費やした時間と思いと手足がある。その結果としての今のそのままがある。


 今年の言葉を、「初心」にすることにした。


 つくばに移ってから、一年目を「播種」、二年目を「発芽」、三年目を「着根」として正月に毎年のテーマを掲げてみていた。その年それぞれに、前年を振り返りながらその年に持ちたい言葉を考えていた。2008年の正月、「着根」と決めた後に漠然と将来を期待しながら思い描いていた2009年の言葉は、「開花」だったように覚えている。かくして「開花」は今の自分の言葉としてはほとんど当てはまらず、導き出されるがごとく、「初心」でしかなかった。

 小生にとって自然農とは。世の中にとって自然農とは。自然にとって自然農とは。自然農はつまりは、まずは農であること。そのとどのつまりが自分にとって揺らがないこと。自分が向き合っている様が、つまりは畑と田んぼに表れるということ。自然農に足を踏み入れて七年目の今年、その根本をシンプルに見つめなおしたい。


 リラックスして、心のままに、真剣に、自ずから然らしむるように。空は見てくれているのだ。

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【小寒】…冬至より一陽起るが故に陰気に逆らう故益々冷る也(暦便覧)
      ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=3:7

      この日をもって「寒の入り」とし、寒中見舞いが出されたりする。
      この日から節分までが「寒の内」で、約30日間、厳しい寒さが続く。
      芹の苗が出盛り、雉が鳴き始め、泉の水が心もち温かみを含んでくる。
      小寒から四日目を、特に、「寒四郎」、九日目を「寒九」と呼んでいた。
      寒四郎は、麦作の厄日とされており、この日の天候によって、
      その後の天気や収穫に重大な影響があると信じられていた。
      また、寒九は「寒九の雨」といって、この日に降る雨は、
      農家にとって豊作の兆しであると信じられ喜ばれた。
      ※読み:ショウカン
      <参考:【室礼】和のこよみ
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2008年12月09日

霜月十二日 曇りのち雨

 底冷えの寒気が、家の中にシンと張りつめてきた。節句は二日前より「大雪」。つくばではまだ雪の声は聞こえてこないが、日暮れから軒を濡らしだした雨音に秋の温もりは残っておらず、冷たく厳しい冬の雨があたりを包む夜を迎えた。

 昼、ストーブに火をつけて芋を焼きながら、来客のDanさんとしばし談笑した。そこから飛翔する、自分と世の中の終わる事のないバランス合戦への思考の旅。自分はどうあり、世の中はどうあるか。なぜ自然農に惚れて「今」のこの32歳の自分をこの場所に置いているのか。

 家庭菜園のフィールドとして野菜作り、米作りなどをしたいわけでは全くない。安定的な食糧自給を目指しての就農だったり、安心・安全・健康な野菜を作りたくて農の世界に片足を踏み入れたわけでも、おそらくない。耕運機で耕して肥料を使って農薬を播いて作物を育てるんだとしたら、間違いなく、自分は今この場にいないはずなのだ。

 ではどうして。そしてこれから何を。それを言葉でつむぐ時期は、今ではない気がしている。心の底に宿っている大切な「勘」、心の隣にそっといる大切な「人」、心の芯から楽しめる大切な「欲」、それらを混ぜ込んで炊き上げてとびきりうまい料理にするレシピとして、自然農を見つけてしまったんだという、今のこの、感触。まずは今、そして次へ。これからもどっぷり、自然農でまいりますので、どうぞ宜しく。

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 だって、面白いんだもの。それ以上の理由、ないもの。

 
 寒さが運んでくれる翌春へのこの皮算用が、冬の隠れた楽しみ方なんだとしみじみ思うようになってきた。これってたぶん正しい。



【大雪】 …雪いよいよ降り重ねる折からなれば也(暦便覧)
      ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=6:4

      もう山の峰は積雪に覆われているので、大雪という。
      平地も北風が吹きすさんで、いよいよ冬将軍の到来が感じられる。
      この時節、時として日本海側では大雪になることもある。
      ぶりやはたはたの漁が盛んになる。
      熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色づく。
      ※読み:タイセツ
      <参考:【室礼】和のこよみ>  
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2008年07月26日

剛毛 vs 無毛

水無月二十四日 曇り

 昨晩の雷雨が嬉しくて寝坊にも負けずに朝から田んぼと畑をぐるぐると見回った。一時しのぎの通り雨ではあったが、寝起きの草達は、沁み込むように水飲みをしているように思えた。田んぼも、畑も。

 自然農の畑に草がある。これは当たり前の風景である。田んぼにも、畑にも、作物があり、そして隣り合いながら雑草が生えている。言い方を変えれば、生きている。生き方や住む場所が千差万別なのは人間も動物も植物も同じであり、それは田んぼも畑も千差万別であることを意味する。そして草の生え方、育ち方、つまりは土の様子や性格も千差万別を数える。

 この地の田畑に移って半年以上が過ぎ、しかしまだ一巡りも過ぎてはおらず、初めての田畑には幾度となく驚き、悩み、喜び、あきらめ、そして、ひたすらと時間が過ぎていく。そのなかで、自分があれこれ手を加えることと、自然にただ任せることが、相反することではなく同義であるなんだという思いが備わってくるようになってきた。初めての場所、個性ある土と草を目の前にすると、あれやこれやと手を出して、自分の思うような田畑に変えていきたいと欲張り、そしてすべからく空回りして呆然とする。一方で、もうやってられるか、と自然農の放任主義を都合よく解釈して草の生えるに任せていると、やがて諭されるかのように、取り返しがつかないほどの大繁茂の雑草たちに愕然とする。

 自然農の肝要は、もしあるのだとしたら、それは「土と草を見る」ことなのではないかと思う。土も見ず、草も見ずに、自然農のテキストや耳学問の作法をこなしてみても、それはただ自然農の真似事をしているだけであり、自然でもなければ、農でもない。一番奥底に隠されている秘宝には決して触れられずに、自然のもつ通り一遍な厳しさを、もしくは運良くお手軽な収穫体験を体験できるだけで、それで終わってしまう。それに甘んじたくないのだとしたら、その先の入り口は、いつも目の前にある、「土と草を見る」ことにあるのではないかと思う。

 今自分の対面している畑は、極端に言えば二つの極相に分かれている。数年間、雑草抑制の為のトラクター耕運を繰り返されて、雑草の命が極端に少ない「無毛の畑」。そしてその隣には、芝畑の放棄地にセイタカアワダチソウやススキが犇いて土中にその根が絶望的に伸張している「剛毛の畑」。


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 無毛の畑には、草が圧倒的に少ない。野菜の種を播く際も、被せる草もはるかに少ない。草がない土は、乾燥が速く、乾燥してゆく土は次第に固く締められてゆく。作物は苦しそうに窮屈に育ち、さらに栄養分も少ないためか、成長は心もとない。固さをほどくためには、また人為的に耕起するか、もしくは粘り強く移り住み始める雑草たちの根が耕すのを待つかの選択だろう。そのプロセスに待ちきれずに耕起をすれば、それは終わりのない人為的耕運のスパイラルを続けることになる。数年の間、草を生やすことができなかった土は、そこに住み交う虫も微生物も圧倒的に少ない。なぜなら、そこに住処も食べ物もないから。しかし、ある種は生き残り、ある種はいずこより飛来し、草が生え、根づいてゆく。いつしか土は和らぎ、虫が住み、微生物が根に宿る。枯れ葉は土に落ちて優しい布団を被せ、その亡骸が次の命の力に繋がってゆく。その繰り返しが、畑を小宇宙に近づけてゆく。愚農ができることは、雑草が増えてくれることを待つこと。時には隣の雑草畑の刈り草を入れ、収穫後の残渣を入れ、米糠を振り、急がせようとしてしまうものの、しかし本当にできることは、待つこと以外にない。




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 剛毛の畑には、作物が育つ隙間がない。超絶に地中に張り巡らされたススキ、セイタカアワダチソウ、芝の根は、アレロパシーという武器で作物を襲う。アレロパシー(多感作用)とは、【植物が成長の場を確保するために、根や葉などから他の植物の生長を抑制する物質を分泌する現象】とされ、根に隣接する植物に強い影響を与える。事実、作物は伸び伸びと生育を謳歌することなく小さく留まるか、もしくは息切れしたかのようにいつの間にか姿を消してしまう。アレロパシーの性格を持つ雑草たちに負けない畑にするには、どうすればよいか。一つは、耕起して彼らの根を裁断し枯れさせ、時には焼却し、根絶やしにすることもできる。そんな衝動と行動はたしかに魅力的である。もしくは別の手段があるとすれば、それは根気を絶やさずに草を刈り続けることである。彼ら強勢力の草達は、押しなべて「宿根草」という性格を持っている。つまり、土の上に繁茂すると同時に土中にその根を伸ばし、さらにその根を来年の為の貯蔵庫としてさらなる繁殖の基地を築くのである。この時、自然農の最大の友であるはずの「根っこ」が、作物にとって最大の敵となるのだ。しかし相手は無敵ではない。宿根草はその根を根城に発芽し、その後地上に出た後は光合成で大きくなるプロセスを踏む。であれば、こまめに執念深く、伸びては刈り、伸びては刈りを続けることで、根城の栄養素は次第に枯渇し、かつ光合成によって次世代の新根を伸ばすという隙をあたえず、いつしかかの宿根草たちも勢いを失ってゆくのだ。その間に逞しき他の無限の雑草達がいつの間にか住処を増やし、草の種類の増えた土は生命が豊かになり、作物もその中で育ってくれる畑に近づいてゆく。愚農ができることは、宿根草の根がギブアップするまで草を刈り続けること。時には鍬を振って耕起しつつ、堪忍袋が切れて焼き畑だってしてみながら、宿根草の減退を急がせようとしてしまうものの、しかし本当にできることは、刈り続ける以外にない。


 土と草を見て、語られている姿に目を凝らし、少しだけ自然のプロセスを勉強して、何をすべきか考える。その千差万別にあわせて自分と自然の間に立つ面白さが、自然農のとてつもない魅力であり、原点でもある。 時には裏切られ、時には褒美をいただき、翻弄と着実が同居する営み。自然と人間の交わる真理を容赦なく突きつける、自然農の醍醐味がそこにある。





 閑話休題。本日配布の常陽リビングに、雑草屋を扱った記事が掲載されました。記者のEさん、素敵な文章ありがとうございます。そういえば今年のテーマは「着根」でした。宿根草とまではいきたくないけど、根っこを伸ばして少しずつ。そんな思いを新たにして。
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2008年05月31日

匂い

卯月二十七日 雨

 雨が寒い日となりました。ブルブル。

 雨上がりの晴れた日、栗の花の「薫り」がどんよりと漂うこの頃は、雑草がいよいよもっていたるところに茂り始める。「草いきれ」と呼ばれる夏の始まりの独特の重い空気であるのだが、自然農の百姓にはたまらない「気」の満ちる頃でもある。

 そしてその同じ頃、同様の重力を携えた「匂い」が立ち込めるのもこの季節の特徴である。雑草退治に苦心されている方の魔法の薬、「除草剤」の匂いである。ちょっとすえたような、むっとくるような、中学校の運動部の部室のような、大自然の中ではなかなか鼻にしないような、でもそこまでは強烈でもない匂い。畑に立っている時、自転車で走る時、ふと、風にまぎれて漂ってくるその違和感はここ数年の百姓暮らしですっかり恒例のモノになりつつある。
 特に数日行けなかった畑に来たときにソイツに遭遇したら要注意。まずは畑の周囲を歩いてみる必要がある。まず間違いなく近くに茶色く枯れたエリアを発見するだろう。それはたいていもちろんお隣さんの畑であるが、ごくまれに、小生の畑の作物にもかかることもある。そして、おやまあ、と驚くほどにぐっしょりと首を傾けた苗の姿に出会い、そして数日の後にその苗は枯れてしまうのである。こちらとしては残念極まりないことではあるのだが、「雑草」に対していかに自分が異世界にいるかを痛感する瞬間でもある。そうした混沌を受け入れつつお隣さんに少しずつ理解してもらいつつという方法こそが、自然農を続けていく上で大切な、ゆるい感覚でもあるのだろう。できうる限り。

 そういうわけでお隣との境界線の雑草管理は、自然農実践において何にもまして最優先されるべき重要事項なのである。明日やる、と思っていたその日の留守に除草剤を散布されていても、どうにもこうにも後の祭りなのだ。「ぼうぼうだったからクスリまいちゃったよ」と言われたらそれまでの世界ですから。


 雑草はやっぱり、邪魔者なんだよね。今のところ。あの匂い、漂ってるんだよなあ。ふがふが。




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 除草剤の威力。
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2008年05月27日

朝露と砂漠

卯月二十三日 晴れ

 日中の暑さが増しても、日が沈むとしっとりと空気が冷える。半そでではまだバイクの風が肌寒い。この冷たさが朝露を畑に降ろし、自然の湿気を作物に与えてくれるのだろうか。朝露は、もちろん、夏の間続く。

 雑草のない剥き出しの畑はこの作用の恩恵にあずかれないために、潅水の必要が出てくるともいえる。とにかく、雑草が茂る畑の朝は潤っている。地下足袋で早朝に自然農の畑を歩くと、十歩ほど歩いただけで足袋がぐっしょりと濡れてしまうほど。その湿気が雑草と作物の下の土壌に降りて日中の灼熱から乾燥を防いでくれるのだとしたら、なんと効率の良い仕組みだろうか。雑草を取り除いた畑では、朝露を受ける草もなく、作物以外に陽を遮る物もなく、ただただ乾燥を余儀なくされ、結果「水遣り作業」が必要になる。「農業」=「水遣り」の一般的イメージは、「食事をすれば排泄する」くらいの常識として流布されている。森のあれほど豊かな大木が、一切の潅水を必要とせずに生育するさまを想い描けば、自然農の底力を侮ることはできない。 同時に、砂漠化のきっかけに現代農業にも一端があるのだとしたら、とも思わずにいられない。もちろん、科学的に確かなことかどうかは小生はわからないのだが。

 まだ冷たさの残る夜風にあたりながら朝露の恵みを想い、自然農のダイナミズムを考えた。
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2007年04月17日

掃討作戦

弥生一日 曇り時々雨

 菜の花が農園の畑に咲き乱れて数週間、黄色に広がる帯は畑の風物詩となっていた。自然農に触れて初めて知ったことは数知れないが、菜の花もその内の一つである。

 白菜、キャベツ、小松菜、水菜、タアサイ、野沢菜、チンゲンサイ、はたまたカブに至るまで、これみなアブラナ科の植物。これらアブラナ科の植物は、菜っ葉のうちに食べているので普段はなかなか気づかないのだが、人間がいずれは子供を授かるように、当然花をつけて種を残そうとするのである。つまりは、みな、アブラナとして、同じように「菜の花」を咲かせるのだ。


 @070407komatsuna A070407mana B070407mizuna
 C070407nozawa D070407taasai

 @小松菜 A真菜 B水菜 C野沢菜 Dタアサイ …違いわかる?


 ぱっと見ても、区別しがたいほどに鮮やかに黄色く匂いたつ菜の花たちには、見事に遺伝子の不思議さを感じさせられてしまう。

 花をつけて種が出来るとなれば、やはり自家採種したいのが百姓の性であるが、そうは問屋が卸さない。アブラナ科の野菜は、ミツバチなど昆虫によって受粉する性質をもち、その多くは交雑して、次の世代の野菜たちは異種混合のハーフの子になってしまうのだという。つまりはチンゲンサイと水菜のMIXや、白菜とカブのMIXなど、安定した種類の野菜の種を望むのは難しいらしいのだ。交配を一手に担う、ミツバチの飛来距離を甘く見てはいけないのである。


 さて、つくし農園の畑にもう一度目を向けると、一面に咲く菜の花たちを尻目に青々と元気に葉を茂らせる一群が目に入る。遅蒔きして今の時期に盛りを増す小松菜の一群だ。ここの土地との相性も良かったようで、葉の育ち方も他を圧倒して元気が良い。つまりは、この小松菜の種を採ることが出来れば、つくし農園に適した小松菜の種を手に入れられるかもしれないということではなかろうか。善は急げ。そう、交雑は待ってくれない。今まさに、蕾を伸ばし始めるこの小松菜が開花する前に農園の菜の花を刈ってしまえば、他と交雑することなく良質の種を手に入れることができる。
 そう判断したインチキ百姓は、農園に散らばる可憐な菜の花の区画のプレーヤーに協力を仰いで、週末から菜の花掃討作戦を慣行中です。このあまりにも人間本位な試みに、自然はいかなる判断を下すのか。しかし、それが農業という、人類の背負った巨大な「業」でもあるのだな。
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2006年03月05日

ご法度

如月五日 晴れ

 この週末は江南で過ごした。田んぼと畑の後始末をする週末。「焼畑」を楽しんでしまった週末。

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 自然農ではご法度(優しく言えば「できればしないほうがよい」とされる)とされている農作業がいくつかある。「耕すこと」、「農薬を使うこと」、「化学肥料を使うこと」、「雑草を抜くこと」などなど。それは何故かと問えば、答えは「田畑の生命活動を豊かにする」という大きな目的に沿わないからと言えるだろうか。野菜、雑草、昆虫、微生物、バクテリア、動物、人間、という田畑にかかわる生命体がおのおの活発に生きながら食糧生産という大目的を目指すのが、自然農であるから。
 
 さて、そのご法度のひとつに、「焼畑」もあげることができる。古くから農業の重要な手法として用いられてきた「焼畑」であり、農学素人のインチキ百姓が反論しても始まらないのだが、耳学問をまとめるとこう考えられる。


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2006年02月03日

心の鬼

睦月六日 晴れ

 節分。ぽかんと晴れた午前。散歩の時間を作って畑に足を伸ばす。春が生まれる前日のこの日の畑は、息吹きの可能性が雑草の下に隠れて満ち満ちているようだ。
 
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 収穫し忘れて取り残されている冬菜やラッキョウの少し目立つ緑色の周りに、薄茶色の雑草に覆われた亡き骸の層。陽気に誘われてその層をめくり、土に手をさしのばす。草は冷たいのに、土はほんのり温かく、ほこほこに柔らかい。その感覚に指先の記憶が敏感に反応する。あああ、しゃがんで草をさわり、土の柔らかさを確かめるこの姿勢を、なぜ僕は忘れていたのだろうか。何がしたくて今の生活をしているのか。この、自然農の、あまりに直感的な感覚に、魅了されたからこそではないのか。それは、ふるさとへ帰ったとき以上に心の中に安心感を与えてくれる優しい時間なのだ。


 鬼は外、福は内、と一人で儀式をする必要はない。自分の心に潜む鬼は、怠け心と慣れ心なのかもしれない。帰り道、廃屋の板穴から首を出す野良猫に睨まれた。お前最近見かけなかったけどサボってたんじゃないの?と見透かされた気がした。
 
070203nora

 鬼を追い出して、初心を思い出してみる。

 自然農の土が、草が、太陽の匂いが、大好きなんだということ。
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2005年11月08日

コメント返信♪

神無月七日 晴れ

※11月6日の記事へのコメントに対する返信が膨らんでしまったので、記事にしてしまいます。

 以下、返信内容です。


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2005年11月06日

自然農の理由

神無月五日 曇りのち雨  

 食べ物を自分で作る。
 自然の中で時間を過ごす。
 自己満足に浸る。

 こうした目的の他に、「自然農」だからこそ時間を費やせる理由がある。小生が「自然農」に惹かれ、人生の多くを費やしてもよいかなと思えているのはその理由があるからだと思っている。
 今後、いつかどこかで自分をきっかけに「自然農」に触れる機会があった人に、そのことをしっかりと伝えたい、伝えることはきっと意味があるはずだと思い、今現在の自分の理由を考えてみることにした。


 ひとつは、「食料問題について考えるきっかけを与えてくれる」こと。

 食糧増産、安定供給、人口保持を旗印に当然のように使用されている「化学肥料」と「農薬」、そして「動力機械」。それはそれで歴史的、科学的に正しい。しかし、化学肥料、農薬は何からできているのか、原料、燃料の石油、鉱物は無限に存在するのか。商社が未来永劫、地球の裏側から(もしくはこの日本のすぐそばかもしれないけど)供給してくれるのか。もしくは科学技術が解決してくれるのか。石油、鉱物資源に変わる再生産可能な夢のような技術を提供してくれるのか。
 「育てて、食べる」という、最も人間の原始的な「活動」が実はどんなに難しく、人類の叡智がいかに注ぎ込まれて来たか、私達はほとんど知る機会を失っている。しかし今までの農業の改善や進展(特に産業革命以降)の前提は、有り余る天然資源に依存することで成り立ってきた。その前提が今、成り立たなくなるかもしれない。(もちろん科学技術が解決してくれるかもしれない。)そこに、化学肥料、農薬、動力機械がなくても可能な農法はあるだろうか、という疑問が生まれる。そして、その答えのひとつが小生の出会った「自然農」なのであった。
 自然農は、食料増産、安定供給、人口保持を解決してくれる答えではないだろう。しかしその根本的な存在基盤が危うい今、求めるモノが間違っているのではないだろうか、という疑問を与えてくれる。その先にある危機を考えるきっかけを、きっと与えてくれるはずだ。


 ふたつめは、「マクロな地球環境をミクロな田畑で感じることができる」こと。

 自然農の田畑は、ここの写真をみていただくまでもなく、他の草、虫(概観すれば生物達)といかに共存しながら目的の植物を育てるかというテーマにあふれている。畑にしゃがめば蜘蛛や虫たちが生存競争に明け暮れ、雑草は太陽エネルギーや空気中の炭素、微量元素を取り込みその体に貯め、そして刈った草は長い時間をかけて土に還り栄養となり、化学物質の残らない土には想像をはるかに超える多くの微生物群が存在する。その姿はまさしく、熱帯のジャングルであり、ユーラシアの大森林であり、日本の里山そのもののミニチュアであるとさえ言える。
 人間にとっての自然はもちろん大自然そのままではないから、「栽培」という形をとる「自然農」が存在することにつながる。できるだけの自然環境を尊重しながらできるだけたくさん収穫物を得る方法を試行錯誤する。しかし目的は「収穫」のみにあらず、「共存」も同等に重んじてみる。そこで感じる思いや、感覚、知恵は、地球環境問題という目が眩みそうなマクロな問題を「直感」できるに違いない。


 もっともっとあるはずでもあり、もっともっとシンプルな言葉にもしたい。伝える、伝わるのは簡単な事ではない。



 今日のひとりごとのきっかけをくれた友人に感謝。

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2005年08月20日

日々是好日

文月十六日(満月) 晴れのち夕立未遂 

 田んぼ。いち早く、○○モチ(名称公開禁止)が出穂をはじめた。植え始めの早いイセヒカリはブンケツが素晴らしい。一本植えの苗たちは、隣の慣行農の稲(機械植え=4〜5本?植え)の株の太さに負けずとも劣らじ。耕さず、肥料も農薬も使わず、虫や草と共に育てる自然農だって、ここまでは負けてはないようだぜ。

 畑。気後れしつつも、それなりに頑張っているものもある。オクラ、きゅうり、すいか等はそれなりに実をつけるものも見られ、トマト、大豆、サツマイモ、里芋、菊芋等はそれなりに成長の様子を見せてはいる。ただなあ、雑草の手入れがなあ。適時適時が要の自然農。乾燥か、土が豊かに整っていないのか、雑草か、虫か、一筋縄ではいかねえなあ。


 050820shussui
 稲穂が花をつけだす


 050820daizu
 もっさり茂る大豆


 050820okura
 収穫時期を逃したオクラちゃん



 「甲子園が終わるとひと夏が越えたという感じがするわね。」大家さんに頼まれての草刈りを終えて、立ち話。夕方が似合う季節になって来た。

 満月の南空、晴天の花火大会。耳を澄ますとコオロギが響く夜が訪れている。
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2005年06月07日

ヤギも食わない

皐月一日 晴れのち曇り

 自然農的なもののひとつに、「鉱物資源をなるべく使わずに」という視点がある。

続きはクリック!
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2005年03月30日

菜の花パワー

如月二十一日 晴れ

 晴れたり曇ったりの天気が続く。変わらぬのは、毎日吹き抜ける春風である。ただその風に揺られながらも確実に変化を感じるのは、晴れの日の、のほほんとでもいうべき陽射しの柔らかさと暖かさ。その柔らかさをもっとも美しく受け取るのは、梅でも桜でもない、畑に伸びる菜の花たちではないかと思う。冬の間に遅れた土木作業に汗を流す合い間合い間、包み込むように笑顔を見せるその姿に疲れを忘れさせてもらえる。安い男である。
 
 今年の野菜作り、昨年壊滅的に失敗した経験を糧に、今年は自分の中の「自然農ルール」をはみ出して色々と挑戦も試みる。まずは、購入苗からの野菜作り。インチキ的ルールとしての『固定種の野菜を種から育てる』という不文律を少々改正し、種からの栽培と平行して、(どんな種類だかわからないというリスクを背負ったとしても)苗を購入して育ててみることにもチャレンジする。その他にも、篠竹の繁茂するエリアについてはあえて耕起して、竹が畑へ進出するのを防ぐことにしてみる。耕起した畑には、結果的に掘り返したり等して土を比較的多く動かす可能性のある、葱や牛蒡、山芋などを育ててみたい。守るべきところは守り、臨機応変な変化も試みる。そうして初めて見えてくることもあろうし、失敗して学ぶことも多かろう。思わぬ知人が訪ねて来てくれることで、色々とアイデアをもらえたり、気づかせてもらえたりもする。当然、作業がはかどりもする。インチキながら、そんな試行錯誤の日々。菜の花は、そんな毎日を優しく見届けていてくれる。

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2005年02月24日

脇役

睦月十六日 曇りのち小雨

 昨日の春一番から一転して曇天の下りる昼、自然農の田畑に冬の作業が進む。普段は米や野菜達の姿に隠れて表には出てこない脇役の姿を写してみた。

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 土に生きる微生物との共同作業こそ、自然農の本望。目に見えるものから見えないものまでの食物連鎖の末、分解された栄養素が根によって吸収される、これこそ単純明快な植物が育つ仕組み。自然農の基本は、「持ち込まない、持ち出さない」。つまり、畑の外から余分なモノ(肥料など)は入れず、また余計なモノ(雑草など)は無いので畑の外に出さない。しかし転換地(慣行農)から移行して年月が間もない土地は、地味(土地のもつ底力?)が豊かではないので、手助けしてあげるコトもある。そのオタスケマンの代表選手が『米糠』だ。栄養たっぷりの微生物の餌となり、分解もされやすく、畑の土を肥やし、しかも何より、無料で手に入る(実はこれが一番?)。即効性の「肥料」ではなく、あくまでも「きっかけ」としてとらえる。だから、数ヶ月前に田畑に振りまいておいて、しっかり分解されて土に馴染んだ頃を作物を育てる時期に合わせることになる。

 その糠を振りまく姿は、さながら枯れ木に灰を振りまく「花咲か爺さん」を思わせる、なかなか優雅な身のこなしが肝要。小脇に糠を乗せた手蓑(てみ)抱え、手先からスナップを効かせて振り撒いて歩き回る。均等に、撒きすぎず、薄すぎず。田畑に振り撒き終わるころには、作業着中が米糠まみれになるというのが、自然農の冬の定番となる(嘘)。
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2005年01月20日

雲の流れに思う

師走十一日 【大寒】 晴れ

 【大寒】…冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也(暦便覧)
      一年で一番寒さの厳しい頃 。逆の見方をすれば、これからは
      暖かくなると言うことである。春はもう目前である。
      ※読み:ダイカン
      <参考:こよみのページ

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 冬の勢力極まるこの時期も、昼の太陽に照らされる空気はどこか優しさすら覚える。深夜勤のアルバイトを辞めて日中の仕事を始めると、昼休みにこんな空に出会うことになる。いつもの畑からの景色とは違う、新鮮な昼の空。優しい空気を吹き飛ばす北風は、雲だけでなく背後に広がる畑の土埃も飛び散らせる。土を耕し雑草を一本残らず許さない畑の土は、常に風に吹き飛ばされ雨に流され、少しずつその土地から離れていく。草が表土を覆い、乾燥、雨風から守られている自然農の畑は、土を守り、虫たちを守り、毎年毎年、その命の量を増やしていく。森の木々がその深く広い根で山の洪水や土砂崩れを抑えているのと同じように。空に浮かぶ雲を眩しく見上げながら、そんな自然農の優しさに思いを巡らす。
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2004年09月07日

自然農と私

文月二十三日【白露】 晴れ時々強風

【白露】…陰気ようやく重なりて露にごりて白色となれば也(暦便覧)
     野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。
     朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が
     混じり始める。<参考:こよみのページ)>


 今日の晩、旧友の催し物にてフリーで頑張る仲間の集いが行われるという。「もし可能なら、何か自分のしている仕事(農業)の内容が分かるようなものを持ってきて」と言われて、ハテ困った。履歴書でもなく、名刺などなく、かといって収穫物もなく、いったい何を持っていけばよいのやら。
 かくしてほどなく当Blogを画面印刷して持っていくことにして、講演会みたいなタイトルで筆を走らせる。

 只今ワタクシが取り組んでおります毎日は、『自然農』なるやっかいな哲学に心を半分奪われ、それと共に人生を過ごすにはどう生きるのが良いかと頭を曇らせる日々でアリマス。禍福にも都心からアクセス1時間半の田舎を仮宿としながら、日夜アルバイトと「自然農」作業と将来の構想に明け暮れてオリマス。
 実践されている先達の言葉をお借りすれば、
「耕さず、肥料・農薬を用いず、草や虫を敵とせず…」川口由一氏
「自然の営みに沿い農作物を育てる農のありよう…」沖津一陽氏
あまりにも『「自然」と「食」の営みと繋がり』を忘れ過ぎた我々に、禅問答のように問いと答えを投げかけ、人生のスパイスとして感動と知恵をほのめかしてくれる、それが『自然農』かな。草と共に、虫と一緒に、控えめに、且つたくましく育つ野菜達。そんなことってあるんです。マジで?と驚き、うゎ♪と喜び、何で?と考え、いいなぁ♪と浸る、そんな農、そんな畑。
 世界の食糧事情の解決には貢献せずとも、石油が枯渇した後に自分の周りだけは食い延びられるように心得をつかむことが、控えめなワタクシの目標でゴザイマス。自然農と、その側にある暮らしの中で自分に訪れるキーワードとを紡いでいこうと虎視眈々と含み笑い中。
 最近のキーワード、「人の集まる場所」「江戸時代」「シュタイナー教育」「和モダン」「海辺」「採算」。
 
 この夏で、齢二十八。而立まであと2年、不惑まであと12年。
posted by 学 at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然農のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする