注)記事の日付は太陰暦を用いております

2010年02月04日

立つ

師走廿一日 【立春】 雪のち晴れ

100204risshunn.jpg


 数日前の大雪の予報が、期待ほどに盛り上がらず、もう降りやしまいとすっかり腑抜けていた今日の朝、しきりに冷える窓を開けると柔い粉雪が庭に積もっていた。別段に鬼の面もかぶらず、黙って西南西も向きもしない節分の夜を過ごして、いよいよの立春。

 なにはともあれと言うべきか、待ちに待ったと言うべきか、重い腰に鞭打ってと言うべきか。何につけても理由を欲したがる小生の怠け心を無理やりにでも奮い立たせるべく、「春立つ」の音の響きにあやかって、今年の農作業が、とりわけ特別なこともなく、梅の蕾の静けさのごとく、自分の心の中で幕開けした。作業の中身に、前日との差はなくとも、心が、ようやく前を向き始めた。

 どうでもいいようなこのスイッチを、誰からでもなく、自分で入れられたことが大きいのだと。積もり積もる下の、2月3月の冬の野良仕事が、このスイッチオンによってベルトコンベアのごとく回転をはじめる。あれをやり、これをやり、これもして、あれもして、眩暈と恍惚の自然農トランスへ。そんな桃源郷があればいいのだがね。現実は、行きつ戻りつの振り子の中なのであろうが、今年はもう少し没入したい意気地を持っていきたい。感性360度に張り倒して、頭は緩急つけて、肉体は喜びに変わるぐらい酷使して。今日くらいは鼻息荒く。いざ。
posted by 学 at 23:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 暦の調べ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

今年

師走八日 晴れ

 だぶついたように温い【大寒】を過ぎて、いつもの冬に戻った。異常気象やら温暖化やら、IPCCの修正報道を嘲笑うごとく毎年のように起こっているかのようにも思える。情報に、政策に、巨大資本に、踊らされずに歩くには、何もいらないようでもあり何かを身につけなければならないようでもあり、毎度のことながら、頭をかきながら歩く他ない。


 新年明けど、畑は、土は、草達はただ生き続ける。ただ続きながらえる自然界は、不変のものはない。でははたして人間やいかに。変わらぬとしても喜怒哀楽あり、変わるとしても喜怒哀楽あり、全ては自身の定め方である。生命体は、常に体細胞の分子を入れ替わらせて生きているのだ。



 今年は、「禊ぎ」の年とする。

 変わるも禊ぎとし、変わらぬも禊ぎとする。己の内を禊ぐ。

100122west.jpg

 
 山のような、それでいて草原のような、波のような、目の前に横たわる冬にやるべき作業の量を、覚悟して楽しもう。その先の成果を、五分五分で期待しつつ。
posted by 学 at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月01日

謹賀新年

霜月十七日 晴れ


nengajo4small-a.jpg


 謹んで新年のお喜びを申し上げます。
posted by 学 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 暦の調べ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月17日

ご用心

霜月二日 晴れ時々曇り

 忘れた頃に、ひょろりと連絡をいただき、夏の陽射しが眩しい様子の田畑が木枯しの頃の雑誌に掲載されることとなった。学研から出版されている「野菜だより」は、最近もはや確実にブームと言っていいだろう、家庭菜園雑誌の一つである。見聞きする限りでは「達人」「畑」「だより」が、3大人気雑誌のようであるが、最近3誌の紙面に、慣行農、有機農の大海の中に堂々と「自然農」の名が泳いでいるのが実にまあ、率直に言ってしまえば驚きである。もちろん、「素人家庭菜園向け」というカギカッコつきのフィールドにおいて、というくくりではあるが、なんというか、キテルネこれ。農業系雑誌の大本流と言っても過言ではない、現役農家バリバリも愛読の月刊誌「現代農業」にはまだまだこの波は遠く及んではいないような気がするが、生きてる間に、潮流が変わるなんていうことも、ないこともないのかもしれないよ。これ。

 そのために、いやそのために生きてるわけでもないが、たかがインチキ、されどインチキ、もうしばらく楽しみに田畑に向かうのは、悪い趣味ではないね。これ。

 良いものは、必ず、時代に残るのだという気概を持って。ただし、自分で良いものって言ってる輩には、十分用心されたし。


 「野菜だより 2010年 新春号」は、12月16日から店頭販売中。小生の記事は、自然農特集の中の40pから。


091216magazin1.jpg    091216magazin2.jpg
※著作権の都合上、拡大しても本文はご覧になれません。
posted by 学 at 22:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 地に足つけて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

神無月廿九日 曇り時々晴れ

 神無月が今日で閉じ、明日からは、出雲から八百万の神がつくばにお戻りになる。寒い寒い、霜月。

 新暦では12月も半ばを過ぎ、TVや喧騒から遠のいた生活では年の瀬のムードも賑わいもなく、田んぼに掛けられた残りのプレーヤーの稲束が木枯しに揺れる様子がどうにか年末の頃を思い出させてくれる。大豆、米の収穫は終えた。まだ畑に残していたサツマイモの一部は、なんとか寒波の前に救出できた。畑にうずくまるのは、春に備える空豆、エンドウ、麦たちと、秋からさっぱり機嫌を損ねている冬の葉物たち。

 玉取での自然農がニ年過ぎ、ようやく、土の微生物の元気のなさであったり、少々なら加えたほうが良いであろう手助けなどを解釈できてきたようにも思え、これからの冬本番に少しずつ手を入れようと決めて畑を歩く。しゃがむ。すると、しばらく離れていたエリアの土が語りかけてくる。

 ・・・二年でここまできたよ いろいろと変わってきたよな 来年はどうなるかねえ・・・

 ・・・草も少しずつ、土の中も少しずつ、久しぶりに来るとまた違って見えるだろう・・・

 ・・・いろいろ方法を試してみるの? どっちでもいいよ 上手くやってくれよ・・・

 メルヘンではないのだが、そしてその声はもちろん自分の中とのやりとりなのではあるのだが、しゃがんで、触って、あれこれ考えていながら、そうやって土と話していた。確かにそう、会話した。その感触が、とても心地良かった。作物を育てられない農民は、農民ではないのだろうが、俺は俺だ。育てられなかったこの年は、何も残らなかったのではなく、また一つ重なりが増えただけだ。何も求めてないし、期待もしていない。今年手にした不安が、面白いように確信と好奇心に醸造されているかのような気分。なるようになるし、なれるようにやってもみる。多分半分失敗して、半分成功するのだろう。ならよし、だろ。

 
 裏の竹林から菌床を取って、糠と枯れ草と土と、畑の上で遊んでもらおう。枯れ草をそのまま重ねる畑も残そう。隣の芝畑から農薬が来ないように、竹垣と麻布なんかを張ってみよう。チガヤのジャングルは、一度、耕起しよう。田んぼは、もう少し広げてみよう。


 何にもとらわれない。俺はいつも自由だ。

091211free.jpg
posted by 学 at 18:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

ゆさぶられ

神無月十日 晴れ

091125maiking.jpg


 自然農の本質ってなんだっけ。作物はどうして育つんだっけ。虫って草ってなんだっけ。それなりにわかったつもりで実は会得できていない。「耕さない」「虫や草を敵にしない」「農薬・肥料を使わない」は、ただの目安であって、本質でもなければ、ルールでもない。ただの、目安。わかっていたつもりでいたことが、このところ出会ったちょっとした「きっかけ」に、見事に揺さぶられている。

 揺さぶりのような、振り戻しのような、もしくは追い風のような、向かい風のような、漠然とした、しかし確かな霧に包まれている今日この頃。見たい、知りたい、先に行きたい、という気持ちは常に持っているつもりだが、手にする地図に何かしら漠然とした曖昧さを感じて、四方八方に目線を奪われている。これは、変節なのか、変化なのか、転進なのか、迷走なのか。

 いや、重要なのは、自然農とは、自然とは、栽培とは何であるかということを自分が見失わないこと。会得していないと確信する自分がここにいて、この先にその手がかりがあるという予感できるのなら、何を留まることがあろうか。例えそれが今まで信じていた「ルール」から離れた、別視点の解釈や手法だったとしても、本質に近づけるのなら、じわりと受け入れて問答、試行錯誤をすればよい。

 尊皇攘夷に燃えていた坂本竜馬が、勝海舟の話を聞いて、ぐわんと考えが一変したように。ともすれば安きに流れて凝り固まろうとする頭を、いかに柔らかく保ち続けられるか。それは死ぬまで持ち続けたいスタイルである。いえ自然農はもちろん続けますよ。今はまだ何も言えませんが、自然農においての、面白い解釈に出会いつつあるもんで。そんなこんななのです。


091125net.jpg
 
 干している米へのスズメの襲来があまりにもひどくなって来たので、稲架全体に鳥避けネットを掛けることにした。化学製品の農業資材に、まだまだ助けられていて甘えて自然農をしているのだな。つくばエクスプレスの開発で雑木林を追い出されたスズメや鳥たちではありませんようにと願う。もしそうだったら、電車に乗るたびに新興住民に呪いをかけそうで困ります。南無南無。


 四日前から暦は小雪へ。いつの間にか、てくてくと節句は過ぎてゆきますね。我も我も。


【小雪】…冷ゆるが故に雨も雪となりてくだるがゆへ也(暦便覧)
     ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=7:3

     小雪とは、寒さもまだ厳しくなく、雪まだ大ならずの意味である。
     市街には、まだ本格的な降雪はないものの、遠い山嶺の頂きには
     白銀の雪が眺められ、冬の到来を目前に感じさせる。
     北風が木の葉を吹き飛ばし、みかんが黄ばみ始める。
     ※読み:ショウセツ
     <参考:【室礼】和のこよみ & こよみのページ>  
posted by 学 at 23:08| Comment(3) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

晩秋

長月廿六日

 晩秋の長時雨。すっかり雨天の週となった合間を縫って田畑に繰り出す。収穫に比重が傾くので、稲や豆など乾燥させるための刈り取りのタイミングを計るのが難しい。夕方のぽかりとしたちょっと青空に寄せる、波打つような雲に夜からの雨天をまた警告させられているような気がした。

091112sky.jpg


 5日前から立冬。夏と冬をつなぐこの季はいよいよ深みを増す。晴れ間の陽射しに夏の名残は消え、寒さの芯が冬のものへ移行し始める。その分、火の暖かさが実に旨味を増す気がするのだがね。


091111potatos.jpg

 〜 イモイモを 火鉢に埋めて 待つ笑みや 〜


【立冬】…冬の気立ち初めていよいよ冷ゆれば也(暦便覧)
     ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=9:1

     これから冬に入る初めの節で、この頃は陽の光もいちだんと弱く、
     日足も目立って短くなり、北国からは山の初冠雪の便りも届くなど、
     冬の気配がうかがえるようになる。
     冬の季節風第一号が吹き始めるのもこの頃である。
     時雨の季節でもあり、山茶花が可憐に咲き始める。
     また続いて南国では椿・水仙なども咲き始める。寒冷地では大地が凍り始める。
     「冬立つ」「冬来る」などとともに、冬の代表的な季語になっている。
     ※読み:リットウ
     <参考:【室礼】和のこよみ & こよみのページ
posted by 学 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 暦の調べ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月05日

かんなめる

長月十九日 晴れ

 前々日の旧暦長月の十七日は、新穀を天照大神に奉る神嘗祭(かんなめさい)であった。伊勢神宮では、新暦の10月17日に行われているので、神のおはしますのはもはや新暦の日取りなのかもしれないが、季節と、月の暦と、昔ながらの数えでいえば本来はこの日に祝われていた。その年に採れた新米を我々が食す前に新穂を天照大神と豊受大神(とようけのおおかみ)に捧げ嘗めていただくというもの。

 とはいえカレンダーを見忘れていると、この感覚もすっかりなくしてしまい、つくいちの大忙しに果てて夜も過ぎる頃に思い出したので大したことを言えた義理ではない。神嘗祭へは心で奉納して、新嘗祭(旧暦では霜月第ニの卯の日、新暦では今年は12月29日)を待って新米を楽しみたいと思う。


091104ine.jpg

 稲刈りを、スズメに背中を押されて、一種類、一種類と色づく穂先に応じて進めていく。刈るたびに、一株一株、重みを確かめながら。初春から、均して、播いて、選んで、植えて、育てて、待って、刈って、ようやく。まだまだ、干して、扱(こ)いて、摺って、炊いて、食べるまで。もうひと暦、秋を深めて新米を待つ。



神嘗祭について
 ・・・『和のこころ』 日本の年中行事 より
   季節、テーマごとに和の営みがまとめられているBlog。
   トラックバック、コメントできないのが残念。

新嘗祭について
 ・・・おこよみ焼き より
   従来から、旧暦や宮中行事などについての調べる際によく利用させていただいている。
   なんだかものすごく、旧来の事柄についての引き込まれるような情報の宝庫。
posted by 学 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 田の記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月03日

降りる

長月十七日 晴れ時々曇り

091103hatushimo.jpg



 つくいちの早朝。ぎしりと軋むような朝、間引き菜を収穫するのに畑に出ると、初霜が畑に降りていた。菜っ葉はカシカシと甘く凍っており、摘まむ軍手越しに、霜の冷たさが染みこむ。待ってはいなかったけど、ついに来たなあという思いに浸るのを後回しにして、畑を回り終えた。

 霜が降りれば、サツマイモ、里芋、大豆、生姜、次から次と待ったなしで収穫を余儀なくされる。稲もより一層刈れ色を早めて、稲刈りを待つばかり。ぽかりとした陽気は束の間となり、北の筑波山からの風をついつい恨めしくおぼえるようになるのだ。

 ネットで調べられた限りでは、霜(シモ)の語源は、草木が萎む(シボム)、あるいは凍む(シム)に通じるなどからとのこと。草木が萎み、土が凍み、採るものは採り、育つものは守りながら。押し入れからストーブを出しつつ、また明日の霜を憂う。



霜の語源について
 ・・・『日英ことばの十字路』より参考
   〜電子辞書片手に綴る≪英語と日本語の語源≫雑記帳〜とありますが
   和語、漢語、英語に及ぶ、なかなかどうして広範深長な語源解説サイトです。

posted by 学 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 暦の調べ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月30日

生きとし

長月十三日 晴れ

 耳を澄ますと、虫の音はすっかり止み、ギーギーやらチュンチュンやらの鳥の鳴き声ばかりが辺りを包むようになった。畑に腰を下ろしているとつい、ひとつ藪を挟んだ向こうの田んぼを狙うスズメの大合唱が気になり、足元の虫たちからは意識が遠のく。手元では豆を降ろしながら、時々田んぼを斜めで気にして、こちらの耳でスズメを、あちらの耳では車からのラジオを、混線させて作業している。


091030hana&chou.jpg

 昨年播いたマリーゴールドが自然に育って花が咲き、晩秋の畑に橙の色味を添えている。その花の先に、名も知れぬ蝶(ツマグロヒョウモン)がとまる。重なる鮮やかな色が鮮烈で、昼の陽射しが一層暖かく感じた。鳴き音は随分減りもしたが、虫たちの生きとし生ける命はまだしばらく、続くのだ。まだ、草の命が先に進もうとする限りは。


 ひとしきり播き終えた豆の作業を切り上げて、隣の畑へ。昨年定植したステビアの株がくたびれかけている事を忘れていて、枯れてしまう前に甘味の葉を集めて乾燥ハーブを作ってみることを思いついた。ステビアの畝に腰を下ろし、まだ青味が残る葉を選んで籠に摘み進めてゆくその足元に、見慣れぬ影が目に留まった。

091030mogura.jpg

 数ヶ月ぶりかに見る、モグラだった。そしていつもと同様に、命を絶った後であった。随分と、暗澹と、畑を悩ます三本指に入る、やっかいものの最後の英姿である。今年もどれだけ小生を苛だたせてきたか知れない原因の、小さな体躯が、畑の土の上に無防備に横たわっていた。モグラ、だよな。だいぶ小さいお姿のようですが、子供さんでしょうか。ひっそりと、かつあるがままに、何かに襲われたようでもなく、餓えて痩せ衰えたようでもなしに、ぽつねんと、土の上に、寝ていた。

 自然農の畑には、不自然なものは何もない。秋には秋の花が咲き、蝶がとまり、スズメが騒ぎ、時々にモグラが死ぬ。草も、野菜も、虫も、小動物も、巡る命の中にただ生きて、死に、太陽のエネルギーと不滅の原子分子を体内に循環させきった後に、次の生きとし生けるもの糧となる。
 それだけ。それだけのことですよ。その先に人間様が野菜をいただいて、んでもって、頭でっかちになにやら屁理屈を捏ねて、循環だの持続可能だの安全だの安心だの価値だの生き方だのくっつけて騒いでるだけ。モグラの様には人間様は見事に死ねない。死ねない。だからせめて、屁理屈捏ねてそれでも少し自然の醍醐味に触れて、そう思い込んで、楽しんで生きるしかない。

 あなたは何の為に生きているのですか。俺は何の故に生きているのですか。

 
 酒かなあ。違うよな。
posted by 学 at 23:00| Comment(6) | TrackBack(0) | 自然農のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする